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【焼津と八雲(1)】小泉八雲と焼津の「海」

和田浜海岸

焼津まちかどリポーターの那須野です。

焼津を晩年の避暑地として愛した小泉八雲。八雲は焼津のどのようなところに惹かれ、どうような日々を焼津で過ごしていたのでしょうか。ここでは八雲の愛した焼津の「海」と、「食」からみる焼津での生活に焦点をあてて、ご紹介したいと思います。

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小泉八雲と海

晩年の小泉八雲が焼津を気に入り、毎年の避暑地として選んだ一番の理由、それは、焼津の深くて荒い海にありました。

八雲の生涯を辿ると、彼の行く先にはいつも青い海が開けています。イオニア海に浮かぶギリシアのレフカダ島に生を受けた八雲は、この地で母とともに2年間を過ごします。その後、 波乱に満ちた子ども時代を送った八雲にとって、アイルランドやイギリスの海で覚えた水泳は、彼の心を癒す最高の趣味となりました。
アメリカ時代は、休暇で訪れたメキシコ湾の島や、取材で滞在した西インド諸島マルティニークの海に魅了されます。これらの地での遊泳体験は、小説作品 『チータ』、『ユーマ』として結実しました。

来日後も八雲は出雲の海で泳ぎ、日本海に沿って旅をし、「日本の海辺で」「伯耆から隠岐へ」などの作品を残しています。八雲にとって、幼い頃より慣れ親しんだ海は、創作におけるインスピレーションの源であり、彼は海との一体感を強く求めたのです。

焼津の海との出会い

そんな八雲と海の関わりは、晩年の焼津の海との出会いにより、一層深い意味を持つようになります。これまで出会った海が成し得なかった程に八雲を魅了したのは、駿河湾の荒波が生み出す轟きの音でした。16歳で負った左目の怪我と、生まれながらの近眼のため、視覚が思うように働かなかった八雲は、それを補うかのように鋭敏になった聴覚で、焼津の海の音を感じました。

灯籠流しの送り火を追って海に出た時の随想で、八雲文学の最高峰とも賞される「焼津にて」の最終章には、海の音と人間の魂との究極の関係が語られ、八雲が焼津の海において、文学者としての哲学を昇華させることに成功したことが伝わってきます。

その他にも、焼津滞在中に取材した天野甚助の漂流談が原話となった「漂流」、溺死者の霊を供養する浜施餓鬼体験記「海辺」、そして、夜光虫が光る夜の海での体験から生まれたエッセイ「夜光幻想」など、海に関する珠玉の名作が、焼津の地において誕生しているのです。

 

焼津に来ていた頃の八雲は心臓を患い、6度目の夏の滞在を終え帰京した翌月に帰らぬ人となりました。医者から焼津での水泳を禁じられた年もあったといわれているので、焼津での遊泳が自分の死期を早めることに八雲は気がついていたと思われます。

しかし、病を押し、命と引き換えにでも泳ぎたい海が焼津にはあったのでしょう。このことは同時に、焼津の海が、彼の30年に及ぶ作家人生を完結させたるための重要な役割を果たしたことを物語っているのです。

小泉八雲を知る

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(1850-1904)

ギリシア、レフカダ島でアイルランド人の父とギリシア人の母との間に生まれる。
19才で単身アメリカに渡り、同地で20年間ジャーナリストとして活躍。1890年にルポライターとして来日。来日後は英語、英文学講師として松江、熊本、東京などで教鞭をとる傍ら、日本に関する13冊に及ぶ著作を英米で発表。
松江で出会った小泉セツとの結婚を機に日本に帰化し、小泉八雲となる。1898年以降、ほぼ毎年の夏休みを焼津で過ごし、焼津に関する著作も残した。

焼津小泉八雲記念館

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AYAKO

焼津小泉八雲記念館学芸員。日本大学国際関係学部非常勤講師。比較文学専攻。焼津小泉八雲記念館では、企画展示会や八雲関連イベントの企画を担当している。

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ページ更新日:2021年3月21日