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海辺のまちに似合うシャツ  魚河岸シャツの秘密に迫る~前編~

6月あたりになると、「もうそろそろかな?」とうずうずする。

「焼津の夏には魚河岸シャツがなくちゃ!」そんな人たちをあちこちで見かけます。

襟がなく風通しがいい。
焼津の水産業や荒祭を想像させる華やかな柄。
焼津独特な形をし、皆に愛される魚河岸シャツ。

川口呉服店 オリジナル魚河岸シャツ

魚河岸シャツはどんなふうに生まれ、どんな歴史をたどってきたのか。

川口呉服店店主であり、焼津魚河岸シャツ協同組合組合員でもある川口松男さんにお話を聞きました。

川口呉服店の川口さん

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手ぬぐいを多数保有するまち 焼津

昭和初期、手ぬぐいで作られる「手ぬぐい襦袢(じゅばん)」が水産加工の仕事着として重宝されていました。材料として使われていたのは、その名の通り、「手ぬぐい」です。

焼津というまちには特に手ぬぐいを保有していたお宅が多かったと川口さんは言います。その理由について川口さんはこう考えています。理由は3点。

(1)焼津には水産加工の店が数多くあった。こういった店では、販売促進のために店の屋号や店名が入った手ぬぐいを作ってお得意様や仕事関係の人たちに配る風習があった。

(2)8月の荒祭。
この祭りは神役の数が多いことで知られる。神役として祭りに出る人たちは、名入りの手ぬぐいを作り、お手伝いの人たちに配る風習が昔からある。

手ぬぐい

(3)大相撲夏巡業。
昔は先代の栃錦など人気力士が焼津に訪れ、夏巡業が度々行われた。

当時、船元の家には、船員たちがまとまって入ることのできる大きなお風呂があった。力士たちは稽古の後、そのお風呂を借りて汗を流すのを楽しみにしていた。

巡業が終わると、船元の家にはお世話した相撲部屋からお礼の手ぬぐいが送られてきた。

写真は最近の反物。北勝力の名前が入る

川口呉服店の近所の高橋染物店へ立ち寄った際、店主である高橋きく代さんから、こんな話も聞くことができました。

高橋染物店にて 店主 高橋きく代さん

船に乗る人たちのお宅では、この手ぬぐいで服を作り仕事着にしていました。

家で手作りが当たり前な時代。

当時の女性は和裁をやっていた方が多くいらっしゃいました。

家にある手ぬぐいで各家庭の奥さんが簡易なシャツを仕立てます。

魚河岸シャツに近い形ですが、全ての部分が直線裁ちだっただろうと高橋さんはおっしゃいます。

魚河岸シャツの形より少し格好が悪そうですね。

また、漁師の服として焼津に伝えられているものに「鰹縞シャツ」がありますが、焼津では機織り機を持っているお宅があり、鰹縞の生地などを自分で織ったそうです。

魚河岸シャツの原型 手ぬぐい襦袢の歴史

とても便利だったからでしょう。

水産加工業者の人たちの間でも、この服が仕事着として使われるようになります。各家庭で作られていたこの服は需要が増え、仕立て屋でも仕立てられるようになります。これが手ぬぐい襦袢。

川口さんは、焼津は魚のまちであると同時に職人のまちでもあるとおっしゃいます。

水産業関係の仕事はもちろん多いですが、焼津には鮮魚店、なまり節屋、鰹節屋、かまぼこ屋、伊達巻などの練り物屋といった、家族経営の水産加工業を営むお店も数多くありました。

そして、多くの水産業者や水産加工業者を支えるための道具を作ったり、メンテナンスをしたりという仕事を請け負う人たちがたくさんいました。

町内に必ず1店舗はあったという仕立て屋もそのうちの一つ。

家にある手ぬぐい5枚分を仕立て屋に持っていくと、短時間で服が仕上がってくる。これが手ぬぐい襦袢。魚河岸シャツの原型です。

手ぬぐい襦袢より歴史が古く形が近いものに、「ダボシャツ」と「鯉口シャツ」があります。

ダボシャツは、ダボダボ着るところから「ダボシャツ」。風通しがよく、暑い時期に涼むために着る衣装。あの「寅さん」が着ているシャツです。

鯉口シャツは袖の口が鯉のようにすぼまっているのが特徴で、そこから「鯉口」の名が付きました。お祭の衣装などで使われます。

この2つのシャツと手ぬぐい襦袢。どちらも襟がありませんが、2つのシャツが7分袖なのに対し、手ぬぐい襦袢は半袖です。

ダボシャツや鯉口シャツなら手ぬぐい5枚以上の布が必要になりますが、手ぬぐい襦袢なら5枚。

「仕立ての面からすると、この差は大きいし、作る手間も違う。また値段の面でも違ってくる。」と川口さんは言います。これが焼津独特の形となりました。

このシャツの面白い点は、「わざわざ出来たシャツ」という訳ではなく、水産業、水産加工業を生業とする人が多数いる焼津というまちだからこそ自然に派生したというところにあります。

水産業も水産加工業も、何かと汚れやすい仕事です。

高校時代、焼津さかなセンターでバイトをしたときのことを思い出します。

今でも楽しい思い出ですが、一点辛かったのが、仕事から帰ってお風呂に入ること。お湯の温かさでさらに増す何とも言えない生臭さ。

魚をさばくことで飛び散る血、鱗、匂い、自身の汗。

今のように環境の整わない暑い施設での仕事。当時の仕事着は、汚れも相当だっただろうと想像できます。

手ぬぐい襦袢はそんな水産加工業の仕事着としてうってつけのシャツでした。

家にある手ぬぐいでできるので安価。

当時の素材は、総理(ソーリ)というさらし木綿の一種。包帯の材料となるガーゼ地と同じように、血液を吸収し、洗えばそれをきれいに流してしまうことができるので清潔。

またこういった店には一日に何回かの休憩時間があり、そのたびに仕事着を洗う必要がありましたが、「鰹節屋のおばあさんが物干しの下で洗濯物が乾くのを待っていた」というエピソードがあるくらいの速乾性があります。

多様化する魚河岸シャツ

さて、水産業や水産加工業者の人たちの仕事着として広がりを見せた手ぬぐい襦袢ですが、「魚河岸シャツ」と名前を変え、女性向けや子ども向けも作られ、着るシーンも広がりを見せています。夏のまちかどで自転車で走るおじいちゃんが暑さしのぎに着ているところを見かける程度だった魚河岸シャツが、今では焼津の夏の風物詩となるほどたくさんのファンがこのシャツを楽しんでいます。

魚河岸シャツの熱烈なファンのおひとり、レゲエ歌手のパパユージさんに聞きました。

平成31年オータムフェスト出演の際のパパユージさん

シャツは「焼市」の魚河岸ヴィンテージ

―魚河岸シャツの魅力はどんなところでしょうか?

粋で気取ってなく、着心地抜群。焼津の人だって、一目でわかるところが好きです。
誇れる自分たちの文化があるっていうのは、ありがたいです。

魚河岸シャツを焼津の文化だと考えていらっしゃるパパユージさんは、ステージに立つ時は日本、海外含めて魚河岸シャツを着ているそうです。

また、パパユージさんはこんなこともおっしゃっていました。

「元祖魚河岸シャツの綿は、今みたいに浴衣生地ではなく、少し黄なり色です。 手ぬぐいも、最近では浴衣生地になり、手ぬぐいとしてはあまり水を吸収しない分、使いづらい時もありますが、昔ながらの生地は水を吸い取るし、乾きも早くて良いです。いつから変わってしまったんだろう…」

パパユージさんの疑問の答えの糸口は、川口さんのお話の中にありました。

後編へ続く

まちかどリポーター

まちかどリポーター:かめ

かめ

焼津生まれ・焼津育ちの野菜ソムリエ。地元の野菜を調べる内、"生きた文化遺産"と呼ばれる「在来作物」と出会い、保存活動を続けている。活動の中で知った焼津の魅力を紹介しようとまちリポに参加。

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ページ更新日:2021年3月17日