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徳川家康公に愛された焼津の「みだらけ惣右衛門」から考える持続可能な地域の社会とは?

2023年1月から始まった大河ドラマ「どうする家康」で話題になっている徳川家康公。その家康公と焼津の関わりの逸話は、戦いの折りに身を隠したとされる大崩海岸の「御座穴(ござあな)」や、他記事で紹介した焼津の鰹漁船の「八丁櫓(はっちょうろ)」の逸話、鷹狩りの際、家康公が旗を立てかけたと言われる「旗掛石(はたかけいし)」など様々残っている。

家康公がたびたび焼津を訪ねたのは、駿府城(現在の駿府城公園)に住まいを移した晩年。
趣味の鷹狩りをするため、慶長13年から元和2年まで(1608~1616)には15回以上、山西(現在の志太地域である焼津市、藤枝市、島田市)を訪ねたという。

その時期に、家康公と親交を深め、信頼を寄せられていたのが、当時、鷹狩りのお供をしていた豪農・良知家(現在の焼津市一色)の当主、良知惣右衛門(らち そうえもん)。
家康公から、「みだらけ惣右衛門」という呼び名で親しまれた人物である。

今回の記事では、「みだらけ惣右衛門はどのような人物だったのか」「みだらけとは何か」について、良知家31代目当主の良知淳行さんにお話を聞き、みなさんに伝えていきたいと思う。

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取材させていただいた良知家 31代目当主 良知淳行さん

 

みだらけの由来

焼津の「みだらけ惣右衛?」とは?

良知家はもともと地域一帯をまとめる豪農で、慶長9年(1604)に起きた大井川の洪水により一面荒地になった土地を良知惣右衛門が再び開墾したという記録が残っている。現在の焼津市惣右衛門の地名は、その功績の名残である。

昔の駿河の史料によると、惣右衛門の人柄は「誠実」「正直」で、そしてモノにこだわらない無欲さと明るい性格であったと言われている。
その人柄からか、身分の差はあれど家康公に気に入られ、惣右衛門もたびたび駿府城の家康公を訪ねに行ったそうである。

あるとき、惣右衛門が家康公のところに訪問するときに、おみやげにドジョウを藁でつくった入れ物に入れ、持っていった。しかし、道中に入れ物からドジョウは逃げてしまい、家康公に差し出すときには2、3匹しか残っていなかった。
それを見た家康公は大いに笑い、ご馳走でもてなし、ほうびとして小判をたくさん与えたそうだ。

しかし、惣右衛門はその小判全部を駿府城内で人にふるまってしまったという。
そのことを聞いた家康公は、「仕官すすめても受けず、金をやっても人にふるまい、よくよく欲のない奴だ。以後、『御百性家(みだらけ)』と呼べ」と、惣右衛門を「みだらけ、みだらけ」と親しみを込めて呼ぶようになったそうである(以降、良知家に「みだらけ」という愛称が定着した)。

家康公から良知家がいただいたモノや良知家に伝わるコトとは?

「みだらけ」の良知家には、今でも家康公からのいただいたモノや逸話がいくつも残っている。その一部を紹介したいと思う。

徳川家康公愛用茶壷

東照宮献上品入れ

徳川家3代将軍徳川家光公の幼少期の腹掛けと世継ぎの話

徳川家3代目世継ぎのことでもめていたころ、家光公(竹千代)の乳母であった春日の局(大奥の礎を築いた人)がおしのびで良知家宅に滞在した。
家光公(竹千代)への世継ぎのお願いを、惣右衛門から幕府への発言する権力をもっていた家康公に連絡したのではないかと言われている。腹掛けは、その時の印ではないかと思われている。

伝来史料による「隠された徳川家康公の最後」の話

山西(現在の志太地域である焼津市、藤枝市、島田市)での鷹狩りの折りに、家康公は鉄砲にて狙撃されて重傷を受けなさる。志太郡の一色、みだらけ惣右衛門方にて、かくれさせなさいました。

(参考)家康公が暗殺された説(外部サイトへリンク)(別ウインドウで開きます)

詳細はページ文章の一番最後をお読みください

久能山東照宮の廟門(びょうもん)の鍵の話

家康公の死後、久能山東照宮の廟門(家康公の亡骸を埋葬したところに入る門)の鍵は良知家が保管、管理し、毎年家康公の命日に行われる東照宮祭には良知家当主が廟門の鍵を持っていったそうである。戦後に廟門の鍵は良知家から久能山東照宮にかえされたとのことである。

31代目当主の淳行さんによると、当主に代々教え伝えられてきたことがあるという。

『武士になって刀を持って血で血を洗うような争いごとや騒動は決してしてはいけない。またそのようなことを起こすきっかけとなったり、揉め事になったりしそうなことについては、みだりに口外してはいけない。地位やお金などの欲におぼれず、正直さと信頼を大事に地域や領民の平和な暮らしを追求しなさい』

時の政権をもくつがえすような事実も、代々良知家内だけにとどめ伏せ、江戸時代初期以降、良知家が大庄屋(庄屋のたばね)として治めた地域は『みだらけの里』と言われ、平穏平和で幸せな地域として知られた。

「『みだらけ』の精神とは地域の人の幸福を追求し、地域社会の平和と発展に貢献することではないかと思う」と淳行さんは話してくれた。

今に伝わる「みだらけ」の精神とは?

家康公に愛された「みだらけ」の精神。

その精神は今、どのように語り継がれているのか?

淳行さんが30代当主である父 武雄さんとのエピソードを教えてくれた。

生前、特別養護老人ホーム「あおい荘」を開設した武雄さん。

昭和50年代、志太地域には特別養護老人ホームが2つしかなく、収容人数が少ないために自宅で苦労しながら介護する方が多かったそうだ。武雄さんと当時、学生だった淳行さんもその一人だった。

「介護の悩みを持つ人たちを救いたい」。
武雄さんはそうした強い信念のもと、「あおい荘」を開設したという。

しかし、「あおい荘」を開設して3年が経った頃、開設当初の体制では入居者のケアや受け入れ枠の十分な確保が難しくなってきた。

そのときに武雄さんが考えたことは、『私財を「あおい荘」を運営する社会福祉法人に寄付したい』というものだった。

「『良知家の使命は困った人がいれば救済の気持ちを持たなければいけないんだよ』と諭す父の言葉が、今も大変印象に残っています」と淳行さんは亡き父 武雄さんとの思い出を語ってくれた。

自身も介護の現場で多くの入居者のケアを行ってきた淳行さんは、「現場だけでなく、社会のしくみづくりの面で力になれることはないか」と、あおい荘の理事長を務めながら高齢化福祉社会の問題解決に尽力している。

特別養護老人ホームあおい荘

今の世の中から見た「みだらけ」=SDGs?

今回史料を調べ、良知淳?さんに取材をしてわかったことは、「みだらけ」とは平和・平穏で持続可能な地域づくりではないかということだ。現在で言えば、SDGsだろうか。

今までの世の中の流れは、経済発展や経済成長が重視されてきたように思う。

そして、これからの世の中は、己のことだけではなく地球及び自然環境に配慮し、誰一人取り残さない社会の実現を目指すことが求められている。現在の経済、暮らしを豊かにしつつ、未来の世代にも安心した社会を引き継げるような持続可能な地域づくりが必要なのだと思う。

「三方よし」「因果応報」「火中の栗を拾う」など焼津の「みだらけ」のような教えや格言は古くからある。

日本や地元の歴史を紐解くことで得られる先代からの学びは、地域貢献に取り組む姿勢を正してくれるように思う。

 

まちかどリポーター

まちかどリポーター:ひろっち

ひろっち

藤枝市出身。仕事、人との交流などで焼津との関わりが深くなるに従い焼津への理解が深まり、焼津の良さと素晴らしさを伝えたいと思いまちリポに参加。様々な経験をし、全国各地(現在41都道府県)に行く機会に恵まれた。他の方とは違った視座、視野、視点で焼津の魅力を伝えたい。

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ページ更新日:2023年4月16日